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Story | 【公式】オーベルジュメソン|滋賀・何もしない贅沢を味わう籠れる宿 - Part 5

Story

滞在中の楽しみ方を、
周辺のスポットや季節のトピックを
交えてご紹介しています。

季節のメニュー「立夏」のディナーコース

2020.05.05

メソンでは、季節ごとに旬の食材を取り入れたディナーメニューをご用意しております。

 

「立夏」のディナー

 

新緑の芽吹きから、今ではどんどん緑が濃くなり、

漂う空気も季節が変わったことを教えてくれます。

今回のメニューの天使の海老は、すでにご存知の方も多いと思いますが、

決して海老に天使の羽がある訳ではありません。 笑

天国に一番近い島と云われるニューカレドニアの

大自然の中で育てられている為に名付けられました。

海老本来の甘みと旨みをマリネとムースでお楽しみ下さい。

 

エンドウ豆のポタージュは、まさに旬の食材。

淡い緑のスープは、目にも鮮やかです。

今は温かくしてお出ししていますが、気温によってはコールスープとなります。

 

今回お肉のソースとして使われているグリーンペッパーは

完全に熟さないうちに収穫されたもので、のちにブラックペッパーとなります。

その爽やかな香りとスパイシーでパンチの効いた辛味は、

和風ソースの味をひきたてます。

 

それぞれのコースの詳しい内容は以下からご覧ください。

なお、仕入れ等により、メニュー内容が変わる可能性があります。

 

ベーシックコース

地元の食材を大切にした里山フレンチのフルコース全5皿。

【前菜】
天使の海老のムースとマリネ クーリートマトソース
ポークパテのアンクルート バルサミコソース
【スープ】
えんどう豆のポタージュ
【魚介料理】
旬のお魚とローストトマトのマリアージュ
ジェノベーゼソース
【お肉料理】
宝牧場 牛ロース肉のグリエ
和風グリーンペッパーソース
近江野菜などを塩・オリーブオイルだけで焼いたつけ合せ
【デザート】
自家製デザート

自家製全粒粉のバゲット
珈琲 または紅茶

 

シーズンコース

近江の食を代表する近江牛や、地元で長く食されてきたジビエ鹿肉など、

メソンならではの趣向を凝らしたグレードアップコースです。

メソン料理は近江牛、鹿肉ジビエからご選択いただけます。

【前菜】
天使の海老のムースとマリネ
クーリートマトソース
ポークパテのアンクルート バルサミコソース
【スープ】
えんどう豆のポタージュ
【魚介料理】
オマール海老とお野菜の重ね焼き
ジェノベーゼソース
【お肉料理】
宝牧場 近江牛肉のグリエ
和風グリーンペッパーソース
または、鹿肉のグリエ
近江野菜などを塩・オリーブオイルだけで焼いたつけ合せ
【デザート】
自家製デザートとみるくアイスクリーム

自家製全粒粉バケット
コーヒーまたは紅茶

 

スペシャルコース

近江とフランス食材のマリアージュ。地元野菜をおいしく。そんなメソンのスペシャルメニューです。

前菜を2皿をご用意し、本日のスープ、お魚料理、近江牛料理または地元朽木の鹿肉お料理の全7皿のスペシャルフルコース。

大自然の恵みと人の手の細やかなハーモニーが生み出す、地元食材を大切にした里山フレンチの美味しさがここにあります。

【アミューズ】
フォアグラと鴨肉のソテー
シェリービネガーソース
【前菜】
アワビの冷製 梅肉風味
天使のエビのムースとマリネ
【スープ】
えんどう豆のポタージュ
【魚介料理】
オマール海老とお野菜の重ね焼き
ジェノベーゼソース
【お口直し】 グラニテ
【お肉料理】
宝牧場 近江牛ロース肉のステーキ
和風グリーンペッパーソース
または、鹿肉のグリエ
近江野菜などを塩・オリーブオイルだけで焼いたつけ合せ
【デザート】
本日のデザート

自家製全粒粉バケット
コーヒーまたは紅茶 

 

 

 

ぼーっと出来ない

2020.05.01

こんにちは、新オーナーのふうかです。

(私がオーナーになった経緯はこちら

突然ですが、

私はぼーっとすることが苦手です。
休みの日に家にいることはほとんどなく、
いつも何らかの予定を入れたくなります。

 

最近は、休みの日は出かけられませんが、
かと言って突然ぼーっと出来るようになるわけでもないので
長めにお昼寝をしたり、犬の散歩をする以外は
ほとんどずっとパソコンの前に座って仕事をしている状態です。

 

なぜぼーっとしたいかというと、
「オーナーというのは、
手を忙しなく動かしている状況から一歩引いて
先のことを、広い視野で見ることが大事だ」と
前オーナーに言われたからです。

 

この広い視野というのは、

ぼーっと色々なことを考える時間から

生まれるのではないかと思っています。

 

では、なぜ私がぼーっと出来なくなってしまったか、
というと大学時代の習慣が原因ではないかと思っています。

 

大学時代、私は4年間ヨット部でマネージャーをしていました。

 

その仕事というのは、かなり多岐にわたり、

部員の食事作りや、合宿所周りの草抜き、お布団干しといった、お母さんのようなことをしながら、
モーターボートの運転、レース成績の分析、高校生のスカウトのお手伝いなど、
お母さんでは絶対にしないようなこともします。

 

とても忙しいので、いつも何か作業をしながら「次にしなければならないこと」
あるいは「次に後輩にしてもらうこと」をずーっと考え続けていました。

 

そのおかげで、「効率よく速く動く」「今すべき仕事を見つける」
というような能力は身についたと思います。

 

その一方で、何か手を動かしていないと不安になるので、
手を止めてゆっくりと何かを考える時間というのがうまく作れません。

 

最近、ブログを書き始めて、こんな風に「文字に起こす」作業は、

頭を使わざるを得ないので、考えるきっかけにはなるなと思っています。

 

その代わり、頭を洗いながらブログに書くことを考えていると

どこまで洗ったっけ?となってしまったりはしますが・・・

 

もしかして、これがぼーっと出来ているということでしょうか!?笑

 

とりあえず、ここに載せるかどうかは別として、

メソンのことを文字に起こす時間を作ってみようと思います。

2021春。ウイーン移住への記録 第11回

2020.05.01

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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ウイーンでの会社設立をどうするか、という難題とともに、

同時進行しているのが、オーベルジュメソンの「事業承継」問題です。

「事業承継」とは、「会社の経営について経営者が後継者に引き継ぐこと。事業承継には帝王学など、経営者としての資質を育てる【経営承継】と、相続税・贈与税をいかに低くおさえ、かつ株式を次期経営者に引き継がせるという【資産承継】とに分かれる。」(Weblio辞書)

 

跡継ぎがいない中小企業の閉鎖が相次ぎ、

社会問題化する中で、税制・補助金などの支援で、

この問題を解決できないかという試みが始まっています。

 

オーベルジュメソンでは、【経営承継】はすでにスタートしています。

当初、この課題は長女へ様々なことを伝えながら、体制も整え、

私たちの移住直前に新代表者へ移行すればいいと考えていましたが、

移住予定の1年前(4月の某日)に、突如思いついて「今日から、ふうかが経営者です」と、

本人も含め内外に宣言することで【経営承継】を始めます。

 

「立場やポジションが、人をつくる」

これまで、ぼくのまわりで成長した人を見ていての実感があったからです。

これは、多少買いかぶれば、自分たち夫婦自身の経験でもあるといえるかもしれません。

 

今後、メソンの質を向上させることや、事業の幅を広げるテーマはいくつもありますから、

経営者としての最初の大きな一つとして、

そのうちの一つのテーマ実現のための補助金の申請を担当させることにしました。

申請に必要な「作文」は、オーベルジュメソンを

今後も社会にとって存在させる意義のあることを

見通すことができできないと成り立ちません。

 

しばらくすると、長女が「別のテーマで別の補助金も申請する」と言い出しました。

その補助金は、事業承継者が申請し、事業承継者自身の新規事業や経営革新の取り組みための補助金です。

補助限度額は、僕が課題にだした補助金の10倍ほどです。

 

滋賀県には、補助金もふくめ事業承継問題の公的な相談窓口が2か所あります。

それぞれからの公認会計士と中小企業診断士のお二方と、

お話しさせていただく機会がありました。

 

 

実は、私たちのウイーンでの会社設立と【資産承継】は、

密接にリンクしています。

しかし、なにをどこから【資産承継】に取り組めばいいのか。

その糸口が見え始めたとともに、

メソンを現在経営している会社の代表者を長女に移行させ、

(当社は、長女に別会社を設立させようと思っていました)

ウイーンでは、日本の会社の支店形式ではなく、

新会社を設立するということが正解なのだと、はっきりようやく見えてきました。

 

 

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2021春。ウイーン移住への記録 第10回

2020.04.27

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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最近、僕たちの友人などから、オーナー交代と、

僕たち移住への動きへのお知らせに関して、

驚きとともに、宿泊施設を新たに開業することへの

「大変だねー」という反応が届くようになりました。

 

誤解です!

ウイーンで開業のメドが立っているのは、

美術館の「ミュージアムショップ」のような小売りのお店です。

ウイーン在住のオーストリア人が、現在も営業を続けられているショップを、

(僕たちが移住する前日まで経営を続けられているかもしれません)

在庫も含め「居抜き」で買い取り、ノウハウを引き継いでいただきながら、

スタートするというのが真実です。

決して「オーベルジュメソン」の2号店を開業するわけではありません。

 

ただ、少し広めのアパートメントを借りて、

一室でB&Bをやったり、

ウイーンへ留学に来る若い人たちのための下宿を提供できたら、

おもしろいかぁとは思っていますが、メインの仕事にはしません。

 

 

さて、ウイーンでの会社設立などに関して、

相談に乗ってくれそうな在日オーストリア大使館商務部へメールを送ってみました。

もちろん、日本語です。(電話が嫌いな僕にとっては、連絡方法はメール一択です)

参考までに、以下はその全文です。

───

はじめて、ご連絡させていただきます。
この相談内容にふさわしい先が、
別にあるようでしたらお知らせいただければ幸いです。

現在は、滋賀県で下記のような事業をしております。
https://www.meson-box.com/

2021年の年明けから春頃に、
オーストリア人が営む、ウイーンのギャラリーショップを引き継ぎ、
日本人である私たちが営むことがほぼ決まっております。

その際に、現在わたしどもが経営している会社の支店をウイーンで設置するのか、
ウイーンで新たに会社を設立するのか、
どちらがいいのかサポートいただければと思っております。

私たちの会社は、家族経営規模のものですので、
経営者夫婦がウイーンに移住して、
ギャラリーの経営をします。

手続きの簡便さ、定住のためのビザの取得のしやすさ、
ウイーンで経営をスタートさせてからの税務上の優遇措置などに、
差があるようでしたら、教えていただければと思います。

ご判断いただく上で、
ご不明な点がございましたら、
お知らせください。

よろしくお願いいたします。

───

 
 
日ごろ外国の大使館とのお付き合いがありませんから、
日本語のメールで通じるんだろうかとか、
大企業でなく、個人事業規模の開業の相談に乗ってくれるんだろうか、とか。
勤勉さが不足するお国柄の「お役所仕事」だったら、
完全に無視かもなぁとか。
不安は山盛りですが、ほかに相談相手のメドもありません。
 
あまり過剰な期待をせずに、待っていると、
返信が返ってきました。
 
 
───
オーベルジュメソン
渡辺 様、

ご連絡ありがとうございます。オーストリア大使館商務部の〇〇(注・実名省略)と申します。初めて連絡させていただきます。
  この度、貴社の海外出店に関しオーストリアへの進出をお考えいただき、ありがとうございます。

本件は海外出店などオーストリアへの企業進出を支援する「オーストリア経済振興会社」(https://investinaustria.at/ja/) との相談になるのですが、明日午前に電話での打ち合わせが可能でしょうか。

その為、貴社概要、ビジネスプランに関し、英語の資料がございましたら、ぜひ送っていただきたくお願いいたします。
  但し、まだ情報収集の段階であるとか、資料準備が間に合わないということであれば、打ち合わせの際に、先ずは詳しくお話をお聞かせください。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

オーストリア大使館商務部
商務官
〇(注・実名省略)

───

 

「おー!返事があった!」

「オーストリア大使館やるやん」なのです。

 

このメールの文章、ご本人が書いたのか、

日本人の秘書のような人が書いたのか。

ちゃんとした日本語です。

 

こんなことでも、オーストリアという国への信頼度が、

急速に高まったりするわけです。(笑)

 

そして、翌日大使館に電話することになります。

(電話での打ち合わせって、どういうことやねんと思いながら)

 

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私のこれまで

2020.04.26

こんにちは、新オーナーのふうかです。

 

私がオーナーになった経緯は前回お話ししましたので、

今回は、私のこれまでを少しお話したいと思います。

 

私は、メソンのあるエリア、

大津市の北、琵琶湖と山が両側から迫っているような場所に生まれ、

京都に行くのは「プチ旅行」だと思っていたくらい、

田舎でのんびりと育ちました。

 

ところがそんな田舎者の私は同志社女子中学校に入学し、

そのままエスカレーター式に同志社女子高校、同志社大学へと進みます。

 

大学時代は、

ヨット部のマネージャーとして

真っ黒になりながら忙しくも楽しい生活を送りました。

 

そんな大学在学中に

「メソンを継いでほしい」と両親から手紙を手渡され、

卒業後メソンで働くことが決まり、

約1年間働いて今に至ります。

 

 

前回も書きましたが、

私は両親が話し合って決めたことに対して

そのまま納得してしまうところがあります。

 

例えば、

99%が地元の中学校に進学する小学校にいながら、

「受験したら」と言われたときもすんなり受け入れたし、

大学在学中は、通える距離ながら言われるがままに京都で下宿、

4回生の秋学期、あとは卒論を仕上げるだけというところで

「色々考えたんやけど大学辞める?」と提案された時も

まあいいかと思い、やめるつもりでいました。

(結果的には卒業しました。)

 

前述したように、

メソンを継ぐことも両親から提案されたもので、

私の自発的な強い意志から決まったことではありません。

 

実は、ウィーンへ行くと両親が言い始めたとき、

「メソンを継ぐのをやめて一緒に行く?」

という提案もありました。

 

ですが私はその誘いを断りました。

 

これまでは、両親が私の人生の「最善であろう道」を考え、

用意してくれていましたが、

もうそろそろ私の人生の道は私が決めるべきなんだろうと思ったからです。

 

幸いなことに恵まれた環境で育った私の

かなり遅めの自立ではありますが、

「メソンのオーナーになる」ことは

やっと自分で選んだ初めての道ということになります。

 

とは言いながらも、まだまだ両親がいる間は

頼ってしまいがちな私ですが、

これから宜しくお願いします。

 

 

 

1か月に3万円、本を買っていた頃。

2020.04.23

大学生の頃、1か月に3万円の本を買うことを、自分の義務にしていた。

 

当時、京都にある仁和寺と嵐電・御室駅をつなぐ一本道にある、

トイレ・台所共同の下宿屋の4畳半に住んでいた。

下宿代は月13,000円。食費は1日1,000円以内と決めていた。

学費は出してもらうが、自分の生活費は自分でなんとかするから、

仕送りを止めくれていいと、大学2年の頃宣言した。

 

3万円の本代というのは、

これから先、自分はどう生きていけばいいのか皆目見当が使いないが、

「人のために役立つ人間になりたい」という希望を実現させるための、

自分への課題だったのだ思う。

社会はどうなっていて、どうしていけばより良くなるのか。

ものすごく知りたかったのだ。

そのせいか、この頃からフィクションはほとんど読まなくなる。

(今でも読みません)

 

下宿代13,000円+食費30,000円+本代30,000円=73,000円

これ以上の収入を、1か月で稼がないといけない。

 

この収入を支えてくれたのが、病院の宿直のアルバイトだった。

時給制だったのか、一晩いくらだったのか、金額に関する記憶はない。

それでも、一晩で1万円程度もらえていたように思う。

1か月に10日ぐらいバイトに入れば、10万円にはなるのだ。

 

夜6時ごろから朝の8時ころまで。

14時間ほどの拘束だが、大学の授業やサークル活動には、

あまり支障がなく、とても都合がよかった。

 

仕事は多様だ。

外来患者さんの送迎、関連診療所からの「検体」の回収、

常勤スタッフ帰宅後の診療時間外の外来の受付、会計。

往診の運転手兼助手など。

警備の役割も担っていた。

今思うと、本来資格が必要なことまで、仕事をしていたのかもしれない。

 

ほとんど、寝るだけの日もあれば、一睡もできない夜もある。

それでも大学卒後、そのまま就職しなかった時期の僕にとっても、

生活を支えてくれるとてもありがたいバイト先だった。

 

いま、オーベルジュメソンのライブラリーには、当時の本はほとんどない。

自宅に眠っている。

今その本をみると、「熱すぎる」のだ。

この熱さは、メソンのお客さんにとっては意味不明だ。

ライブラリーにあるのは、その後の少し落ち着いてから読んできた本だ。

 

ここしばらく、本をほとんど読まなかったが、

あまり仕事がないので、この一週間で手元にあった下記の本を読み出した。

「里海資本主義」 井上恭介・NHK「里海」取材班 角川出版

「戦後政治を終わらせる」 白井聡 NHK出版

「考えないヒント」 小山薫堂 幻冬社

「レイヤー化する世界」 佐々木俊尚 NHK出版

「佐藤可士和の打ち合わせ」 佐藤可士和 ダイヤモンド社

「左翼はなぜ衰退したのか」 及川智洋 祥伝社

「養老孟司の大言論 1」 養老孟司 新潮社

「養老孟司の大言論 2」 養老孟司 新潮社

 

近いうちに、何冊かはライブラリーに並ぶかもしれません。  

 

2021春。ウイーン移住への記録 第9回

2020.04.21

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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約1年後にウイーン移住が決まって、

それまでにやるべきことを6つに整理しました。

前回のブログを参照ください)

同時並行的に、しかし優先順位をつけながら、取り組む必要があります。

 

今後のことを整理した途端、妻は自宅の2階に上がっていき、

段ボール箱を持って降りてきて、僕のところに持ってきました。

そのとき、僕は薪ストーブを焚いています。

ボール箱の中身は、これまで僕が買ってきた本。

つまり「これを一緒に燃やしたら?」。

 

次の日、彼女は引き出しをもって、リビングにやってきて、

いろんなものをごみ袋に入れだしました。

「その引き出しはどこから持ってきた?」と聞くと、「洗面所から」。

 

妻は、何かを決めると即座に行動に移します。

時として彼女の行動力には、驚かされますが、

僕の考えていることと、とてつもなくズレていることがあります。

僕は、

 ②オーストリアで会社をつくること。

これに必要な情報集めをすることが、なにより大事だろうと思っていました。

どんな手続きを踏んでいけば、会社をつくることができるか、

またどんな形態の会社をつくればいいのか、

あるいは、メソンの経営母体である日本にある会社のウイーン支店をつくればいいのか。

その情報集めをすることが、優先だと思っていたのです。

 

ところが、彼女は段ボール箱を持って降りてきて、古本を燃やすという行動にでた。

つまり、なによりも

 ⑥出発前に、自宅にある自分たちの荷物をゼロに近い状態にすること。

が、最優先だったわけです。

 

このズレに大きさには、笑うしかありません。

裏返せば、オーベルジュメソンは、こうやって作られてきたともいえます。(笑)

 

 

さて、本題に戻ります。

オーストリアへの移住に必要なビザを取得するうえで、

「どうして移住するのか」によって取得するビザの種類が違うことがわかります。

(6か月までの短期滞在は不要です)

──────────────

6ヶ月以上の長期移住の際には、目的に寄らず滞在許可(Aufenthaltsbewilligung)を取得する必要がありますが、
オーストリアの滞在許可は、
・雇用
・自営
・研究者
・学生
・家族(現地の方と結婚した場合など)
など細かく種類が分かれており、必要な提出書類も滞在許可の種類によって異なります。
これらの滞在許可の申請は、原則として入国後に現地の役所(各州政府の移民課)で行いますが、
書類の提出から発行までに3ヶ月程度かかる場合があり、
また提出書類の中に住民票など現地で手に入れる必要のあるものも含まれるため、
無査証の滞在の許されている6ヶ月を超えない為にも、入国前から提出書類の準備を進め、
入国後できる限り速やかに手続きを進めることをおすすめします。

「せかいじゅうライフ」より)

─────────────────────────

私たちに該当するのは「自営」でしょう。

「自営」でビザを取得する前に、

会社を設立しておく必要があるわけです。

ビザについては、国内の移住サポート会社の情報や、

移住経験者やオーストリア在住の方のガイドのようなブログは出てきます。

そのほとんどは、会社員、研究者、学生、音楽家などによるもので、

「自営」、つまりオーストリアでの「会社設立→ビザ取得」については、

情報がほとんどありません。

 

が、相談窓口がみつかります。

それが、在日オーストリア大使館商務部というところでした。

 

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2021春。ウイーン移住への記録 第8回

2020.04.20

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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ドイツのご夫妻から舞い込んだ、

ギャラリーショップのオーナー(Mさん)は、

このご夫妻が経営する美術関係の会社のビジネスパートナー。

ご夫妻との関係ができる前から、

このショップは、Mさんご夫妻が自分の子どものように大切に育ててきたお店の一つですが、

奥さんの体調がすぐれないため、

その一つを引き継いでくれる人を探し始めたようなのです。

 

そんな話が、私たちに舞い込みました。

住所と何枚かのお店の写真、

テナントの賃料と在庫や什器などを買い取るおおまかな費用が、

メールで伝えられました。

 

グーグルマップでその住所を入力すると、

私たちが出口として使ったベルベデーレ宮殿のゲートの真正面。

買取費用はなんとか賄えそうだし、

賃料はそのお店を軌道に乗せれば何とかなる。

あとは、自分たちが住むアパートメントの費用と生活費が出せれば、

なんとか生きていけるかも‥‥。

それに「子どものように育ててきた」という感じは、

とてもよく理解できます。

私たち夫婦にとっては、まさに奇跡。

迷う余地はゼロです。

「やります!」と即返信しました。

 

しばらくすると、

オーナーさんからおおよその契約内容や、

引き渡しの時期についてのプランが送られてきました。

メソンでの私たちの仕事も残っているので、

若干の調整をしていただき、決まりました。

引き渡しは、2021年4月。

 

昨年の年末あたりから、

メソンのスタッフ、取引先、地域の人々、友人たちに

「2年以内に、ウイーンに移住します」と伝えてきました。

でも正直なところ、この時点は「移住の意思」はあっても、「根拠」はゼロ。

自分たちでも、明確な日程を言い出すことはできませんでした。

 

私たちのウイーン移住プランは、

自分たちの努力というよりは、

私たちが出会った周りの人の縁が知らないところでどんどん繋がっていき、

自力のがんばりで見つけ出すよりも、

はるかにいい形で決まってしまったことになります。

「なんてことだ‥‥‥。」

移住期限の決定権は、現オーナーにあったとは。

 

この話を本当に実現しようとすると、

ここから自力で地道な作業が必要になります。

①オーベルジュメソンが、今後もちゃんと経営が成り立つようにすること。

②オーストリアで会社をつくること。

③私たちにふさわしい滞在ビザを取得すること。

④住むところを決めること。

⑤ドイツ語、英語の学習

⑥出発前に、自宅にある自分たちの荷物をゼロに近い状態にすること。

 (ウイーンには手ぶらで行こうと思っています)

 

このための準備を、すぐ始めることになります。

 

 

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オーナーを交代しました

2020.04.18

こんにちは、ふうかです。

 

突然ですが、この度、私はオーナーになりました。

 

このブログを読んでおられる方は

2021春。ウィーン移住への記録」を

読んでいただいている方も多いと思いますが、

その中に出てくる「長女」が私です。

 

重複するので簡単に説明すると、

オーナーであった父と母が

ウィーンへ移住することになったので

もともと予定されていた私への交代を

両親が日本にいる間にしてしまおう、という経緯です。

 

 

このブログを使って私が思っていることや

感じていることをお伝えし、

少しでも私のこと、メソンのことを

知ってもらうきっかけになればと思います。

 

 

私自身が一番変わったと思うことは、

すべてが自分事になったということです。

 

去年の春に大学を卒業し、約1年間働いてきた中で、

「数年後にはオーナーになる」ということは頭の片隅にありながらも

どこか他人事だったなということを

最近、初めて気が付きました。

 

例えば、何かを決めるとき、

父と母が話して二人の意見が一致していれば、

深く考えず、「それでいいか」と思うことがほとんどでした。

 

ところが、「今日からオーナーになります。」

と言われた時から、

メソンの周りの物事に対して考え、意見を持つようになった、

と自分では思っています。

(本当は最終決定までしないといけないところですが、

今のところは家族で相談して決めています。)

 

最近再放送している「下町ロケット」というドラマ

(宇宙科学開発機構の研究員だった佃航平が、死んだ父の経営していた中小企業「佃製作所」の社長となり、社員たちと共に奮闘する姿を描く。by Wikipedia)

を見ていると、同じ小さな会社のトップに立つ人間としてなのか、

いつのまにか主人公を応援してしまっている私がいます。笑

 

立場が変わると、メソンの周りどころか

ドラマの中まで自分事になるのだなと驚いています。

 

それはさておき、

これから様々なことに対して、議論を重ねていく中で、

今まで両親がメソンでのことに対して、

どのように考え、向き合ってきたかを知り、

「決める力」を養っていきたいと思います。

 

 

2021春。ウイーン移住への記録 第7回

2020.04.17

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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ヨーロッパといわれるエリアには50か国、

7億5000万人が住んでいるといわれます。

こんなヨーロッパ内で、ゼロから「自分たちが住むのに、もっともふさわしいところはどこか?」

と探し出す行為や、問いに、ほとんど意味がないのはお分かりだと思います。

 

日本以外で、私たちが訪れたことのある世界の都市は、10数か所程度でしょう。

到底、「世界を知っている」とは言えないレベルです。

 

ウイーンは歴史都市。広範な面として、建築や街並みが保存されています。

本当に、街のホールで毎日、演奏会・バレエ・オペラ・演劇が開催されていて、

立ち見なら、4ユーロで見られるケースもあります。

巨大な規模の美術館が点在し、

トラム・地下鉄・バスは発達し、移動に困ることはありません。

戦後は、永世中立国を宣言。

旧社会主義国で感じる「くすぶった感じ」はありませんし、

資本主義大国にみられる「生き馬の目を抜く」かのようなギラついた雰囲気もなく、

穏やかで落ち着きのある街といえます。

「世界で最も住みやすい都市ランキング」などで、

いつも上位にランクインするようなバランスのとれた都市ではあるようです。

 

かつて、社会主義圏と資本主義圏の狭間に存在した国の、

生き残り戦略が功を奏したといえるのかもしれません。

 

いろいろ客観的に理由を挙げることはできるでしょうが、

私たちに決定的だったのは、

これまでも触れましたが、

そこに、サポートをしていただける人がいるから。

ほぼこれに尽きるでしょう。

 

ウイーン移住はほぼ決まり。

仕事をどうするかのメドが立ちませんでしたが、

2度目のウイーン行きからの帰国後、

思わぬ話がドイツ在住のご夫妻から舞い込みます。

 

前述しましたが、娘たちを連れての2度目のウイーンで、

ベルベデーレ宮殿(上宮)へクリムトの「接吻」を見にいきました。

「接吻」の展示室でしばらく動かなくなった次女が、

「この部屋にテントを張って住みたい」と言い出します。

この宮殿の周辺は住宅街で、アパートメントが並んでいるのは見ていましたので、

「この近くに住めば、毎日来れるやん」という会話をしながら、

下宮側の出入口から外へ。

近くのレストランで食事をして、トラムにのって街の中心部へ移動しました。

 

帰国後、ドイツのご夫妻から舞い込んだのは、

その下宮出入口の正面にある、ギャラリーショップのオーナーが、

引き継ぐ人を探しているので、

やってみませんか?という話だったのです。

 

記憶には残っていませんが、

あのとき私たちの視線にはそのお店が入っていたでしょう。

そんな場所で、私たちに仕事の話がやってきたのです。

 

 

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