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私のこれまで

2020.04.26

こんにちは、新オーナーのふうかです。

 

私がオーナーになった経緯は前回お話ししましたので、

今回は、私のこれまでを少しお話したいと思います。

 

私は、メソンのあるエリア、

大津市の北、琵琶湖と山が両側から迫っているような場所に生まれ、

京都に行くのは「プチ旅行」だと思っていたくらい、

田舎でのんびりと育ちました。

 

ところがそんな田舎者の私は同志社女子中学校に入学し、

そのままエスカレーター式に同志社女子高校、同志社大学へと進みます。

 

大学時代は、

ヨット部のマネージャーとして

真っ黒になりながら忙しくも楽しい生活を送りました。

 

そんな大学在学中に

「メソンを継いでほしい」と両親から手紙を手渡され、

卒業後メソンで働くことが決まり、

約1年間働いて今に至ります。

 

 

前回も書きましたが、

私は両親が話し合って決めたことに対して

そのまま納得してしまうところがあります。

 

例えば、

99%が地元の中学校に進学する小学校にいながら、

「受験したら」と言われたときもすんなり受け入れたし、

大学在学中は、通える距離ながら言われるがままに京都で下宿、

4回生の秋学期、あとは卒論を仕上げるだけというところで

「色々考えたんやけど大学辞める?」と提案された時も

まあいいかと思い、やめるつもりでいました。

(結果的には卒業しました。)

 

前述したように、

メソンを継ぐことも両親から提案されたもので、

私の自発的な強い意志から決まったことではありません。

 

実は、ウィーンへ行くと両親が言い始めたとき、

「メソンを継ぐのをやめて一緒に行く?」

という提案もありました。

 

ですが私はその誘いを断りました。

 

これまでは、両親が私の人生の「最善であろう道」を考え、

用意してくれていましたが、

もうそろそろ私の人生の道は私が決めるべきなんだろうと思ったからです。

 

幸いなことに恵まれた環境で育った私の

かなり遅めの自立ではありますが、

「メソンのオーナーになる」ことは

やっと自分で選んだ初めての道ということになります。

 

とは言いながらも、まだまだ両親がいる間は

頼ってしまいがちな私ですが、

これから宜しくお願いします。

 

 

 

1か月に3万円、本を買っていた頃。

2020.04.23

大学生の頃、1か月に3万円の本を買うことを、自分の義務にしていた。

 

当時、京都にある仁和寺と嵐電・御室駅をつなぐ一本道にある、

トイレ・台所共同の下宿屋の4畳半に住んでいた。

下宿代は月13,000円。食費は1日1,000円以内と決めていた。

学費は出してもらうが、自分の生活費は自分でなんとかするから、

仕送りを止めくれていいと、大学2年の頃宣言した。

 

3万円の本代というのは、

これから先、自分はどう生きていけばいいのか皆目見当が使いないが、

「人のために役立つ人間になりたい」という希望を実現させるための、

自分への課題だったのだ思う。

社会はどうなっていて、どうしていけばより良くなるのか。

ものすごく知りたかったのだ。

そのせいか、この頃からフィクションはほとんど読まなくなる。

(今でも読みません)

 

下宿代13,000円+食費30,000円+本代30,000円=73,000円

これ以上の収入を、1か月で稼がないといけない。

 

この収入を支えてくれたのが、病院の宿直のアルバイトだった。

時給制だったのか、一晩いくらだったのか、金額に関する記憶はない。

それでも、一晩で1万円程度もらえていたように思う。

1か月に10日ぐらいバイトに入れば、10万円にはなるのだ。

 

夜6時ごろから朝の8時ころまで。

14時間ほどの拘束だが、大学の授業やサークル活動には、

あまり支障がなく、とても都合がよかった。

 

仕事は多様だ。

外来患者さんの送迎、関連診療所からの「検体」の回収、

常勤スタッフ帰宅後の診療時間外の外来の受付、会計。

往診の運転手兼助手など。

警備の役割も担っていた。

今思うと、本来資格が必要なことまで、仕事をしていたのかもしれない。

 

ほとんど、寝るだけの日もあれば、一睡もできない夜もある。

それでも大学卒後、そのまま就職しなかった時期の僕にとっても、

生活を支えてくれるとてもありがたいバイト先だった。

 

いま、オーベルジュメソンのライブラリーには、当時の本はほとんどない。

自宅に眠っている。

今その本をみると、「熱すぎる」のだ。

この熱さは、メソンのお客さんにとっては意味不明だ。

ライブラリーにあるのは、その後の少し落ち着いてから読んできた本だ。

 

ここしばらく、本をほとんど読まなかったが、

あまり仕事がないので、この一週間で手元にあった下記の本を読み出した。

「里海資本主義」 井上恭介・NHK「里海」取材班 角川出版

「戦後政治を終わらせる」 白井聡 NHK出版

「考えないヒント」 小山薫堂 幻冬社

「レイヤー化する世界」 佐々木俊尚 NHK出版

「佐藤可士和の打ち合わせ」 佐藤可士和 ダイヤモンド社

「左翼はなぜ衰退したのか」 及川智洋 祥伝社

「養老孟司の大言論 1」 養老孟司 新潮社

「養老孟司の大言論 2」 養老孟司 新潮社

 

近いうちに、何冊かはライブラリーに並ぶかもしれません。  

 

2021春。ウイーン移住への記録 第9回

2020.04.21

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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約1年後にウイーン移住が決まって、

それまでにやるべきことを6つに整理しました。

前回のブログを参照ください)

同時並行的に、しかし優先順位をつけながら、取り組む必要があります。

 

今後のことを整理した途端、妻は自宅の2階に上がっていき、

段ボール箱を持って降りてきて、僕のところに持ってきました。

そのとき、僕は薪ストーブを焚いています。

ボール箱の中身は、これまで僕が買ってきた本。

つまり「これを一緒に燃やしたら?」。

 

次の日、彼女は引き出しをもって、リビングにやってきて、

いろんなものをごみ袋に入れだしました。

「その引き出しはどこから持ってきた?」と聞くと、「洗面所から」。

 

妻は、何かを決めると即座に行動に移します。

時として彼女の行動力には、驚かされますが、

僕の考えていることと、とてつもなくズレていることがあります。

僕は、

 ②オーストリアで会社をつくること。

これに必要な情報集めをすることが、なにより大事だろうと思っていました。

どんな手続きを踏んでいけば、会社をつくることができるか、

またどんな形態の会社をつくればいいのか、

あるいは、メソンの経営母体である日本にある会社のウイーン支店をつくればいいのか。

その情報集めをすることが、優先だと思っていたのです。

 

ところが、彼女は段ボール箱を持って降りてきて、古本を燃やすという行動にでた。

つまり、なによりも

 ⑥出発前に、自宅にある自分たちの荷物をゼロに近い状態にすること。

が、最優先だったわけです。

 

このズレに大きさには、笑うしかありません。

裏返せば、オーベルジュメソンは、こうやって作られてきたともいえます。(笑)

 

 

さて、本題に戻ります。

オーストリアへの移住に必要なビザを取得するうえで、

「どうして移住するのか」によって取得するビザの種類が違うことがわかります。

(6か月までの短期滞在は不要です)

──────────────

6ヶ月以上の長期移住の際には、目的に寄らず滞在許可(Aufenthaltsbewilligung)を取得する必要がありますが、
オーストリアの滞在許可は、
・雇用
・自営
・研究者
・学生
・家族(現地の方と結婚した場合など)
など細かく種類が分かれており、必要な提出書類も滞在許可の種類によって異なります。
これらの滞在許可の申請は、原則として入国後に現地の役所(各州政府の移民課)で行いますが、
書類の提出から発行までに3ヶ月程度かかる場合があり、
また提出書類の中に住民票など現地で手に入れる必要のあるものも含まれるため、
無査証の滞在の許されている6ヶ月を超えない為にも、入国前から提出書類の準備を進め、
入国後できる限り速やかに手続きを進めることをおすすめします。

「せかいじゅうライフ」より)

─────────────────────────

私たちに該当するのは「自営」でしょう。

「自営」でビザを取得する前に、

会社を設立しておく必要があるわけです。

ビザについては、国内の移住サポート会社の情報や、

移住経験者やオーストリア在住の方のガイドのようなブログは出てきます。

そのほとんどは、会社員、研究者、学生、音楽家などによるもので、

「自営」、つまりオーストリアでの「会社設立→ビザ取得」については、

情報がほとんどありません。

 

が、相談窓口がみつかります。

それが、在日オーストリア大使館商務部というところでした。

 

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2021春。ウイーン移住への記録 第8回

2020.04.20

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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ドイツのご夫妻から舞い込んだ、

ギャラリーショップのオーナー(Mさん)は、

このご夫妻が経営する美術関係の会社のビジネスパートナー。

ご夫妻との関係ができる前から、

このショップは、Mさんご夫妻が自分の子どものように大切に育ててきたお店の一つですが、

奥さんの体調がすぐれないため、

その一つを引き継いでくれる人を探し始めたようなのです。

 

そんな話が、私たちに舞い込みました。

住所と何枚かのお店の写真、

テナントの賃料と在庫や什器などを買い取るおおまかな費用が、

メールで伝えられました。

 

グーグルマップでその住所を入力すると、

私たちが出口として使ったベルベデーレ宮殿のゲートの真正面。

買取費用はなんとか賄えそうだし、

賃料はそのお店を軌道に乗せれば何とかなる。

あとは、自分たちが住むアパートメントの費用と生活費が出せれば、

なんとか生きていけるかも‥‥。

それに「子どものように育ててきた」という感じは、

とてもよく理解できます。

私たち夫婦にとっては、まさに奇跡。

迷う余地はゼロです。

「やります!」と即返信しました。

 

しばらくすると、

オーナーさんからおおよその契約内容や、

引き渡しの時期についてのプランが送られてきました。

メソンでの私たちの仕事も残っているので、

若干の調整をしていただき、決まりました。

引き渡しは、2021年4月。

 

昨年の年末あたりから、

メソンのスタッフ、取引先、地域の人々、友人たちに

「2年以内に、ウイーンに移住します」と伝えてきました。

でも正直なところ、この時点は「移住の意思」はあっても、「根拠」はゼロ。

自分たちでも、明確な日程を言い出すことはできませんでした。

 

私たちのウイーン移住プランは、

自分たちの努力というよりは、

私たちが出会った周りの人の縁が知らないところでどんどん繋がっていき、

自力のがんばりで見つけ出すよりも、

はるかにいい形で決まってしまったことになります。

「なんてことだ‥‥‥。」

移住期限の決定権は、現オーナーにあったとは。

 

この話を本当に実現しようとすると、

ここから自力で地道な作業が必要になります。

①オーベルジュメソンが、今後もちゃんと経営が成り立つようにすること。

②オーストリアで会社をつくること。

③私たちにふさわしい滞在ビザを取得すること。

④住むところを決めること。

⑤ドイツ語、英語の学習

⑥出発前に、自宅にある自分たちの荷物をゼロに近い状態にすること。

 (ウイーンには手ぶらで行こうと思っています)

 

このための準備を、すぐ始めることになります。

 

 

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オーナーを交代しました。

2020.04.18

こんにちは、ふうかです。

 

突然ですが、この度、私はオーナーになりました。

 

このブログを読んでおられる方は

2021春。ウィーン移住への記録」を

読んでいただいている方も多いと思いますが、

その中に出てくる「長女」が私です。

 

重複するので簡単に説明すると、

オーナーであった父と母が

ウィーンへ移住することになったので

もともと予定されていた私への交代を

両親が日本にいる間にしてしまおう、という経緯です。

 

 

このブログを使って私が思っていることや

感じていることをお伝えし、

少しでも私のこと、メソンのことを

知ってもらうきっかけになればと思います。

 

 

私自身が一番変わったと思うことは、

すべてが自分事になったということです。

 

去年の春に大学を卒業し、約1年間働いてきた中で、

「数年後にはオーナーになる」ということは頭の片隅にありながらも

どこか他人事だったなということを

最近、初めて気が付きました。

 

例えば、何かを決めるとき、

父と母が話して二人の意見が一致していれば、

深く考えず、「それでいいか」と思うことがほとんどでした。

 

ところが、「今日からオーナーになります。」

と言われた時から、

メソンの周りの物事に対して考え、意見を持つようになった、

と自分では思っています。

(本当は最終決定までしないといけないところですが、

今のところは家族で相談して決めています。)

 

最近再放送している「下町ロケット」というドラマ

(宇宙科学開発機構の研究員だった佃航平が、死んだ父の経営していた中小企業「佃製作所」の社長となり、社員たちと共に奮闘する姿を描く。by Wikipedia)

を見ていると、同じ小さな会社のトップに立つ人間としてなのか、

いつのまにか主人公を応援してしまっている私がいます。笑

 

立場が変わると、メソンの周りどころか

ドラマの中まで自分事になるのだなと驚いています。

 

それはさておき、

これから様々なことに対して、議論を重ねていく中で、

今まで両親がメソンでのことに対して、

どのように考え、向き合ってきたかを知り、

「決める力」を養っていきたいと思います。

 

 

2021春。ウイーン移住への記録 第7回

2020.04.17

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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ヨーロッパといわれるエリアには50か国、

7億5000万人が住んでいるといわれます。

こんなヨーロッパ内で、ゼロから「自分たちが住むのに、もっともふさわしいところはどこか?」

と探し出す行為や、問いに、ほとんど意味がないのはお分かりだと思います。

 

日本以外で、私たちが訪れたことのある世界の都市は、10数か所程度でしょう。

到底、「世界を知っている」とは言えないレベルです。

 

ウイーンは歴史都市。広範な面として、建築や街並みが保存されています。

本当に、街のホールで毎日、演奏会・バレエ・オペラ・演劇が開催されていて、

立ち見なら、4ユーロで見られるケースもあります。

巨大な規模の美術館が点在し、

トラム・地下鉄・バスは発達し、移動に困ることはありません。

戦後は、永世中立国を宣言。

旧社会主義国で感じる「くすぶった感じ」はありませんし、

資本主義大国にみられる「生き馬の目を抜く」かのようなギラついた雰囲気もなく、

穏やかで落ち着きのある街といえます。

「世界で最も住みやすい都市ランキング」などで、

いつも上位にランクインするようなバランスのとれた都市ではあるようです。

 

かつて、社会主義圏と資本主義圏の狭間に存在した国の、

生き残り戦略が功を奏したといえるのかもしれません。

 

いろいろ客観的に理由を挙げることはできるでしょうが、

私たちに決定的だったのは、

これまでも触れましたが、

そこに、サポートをしていただける人がいるから。

ほぼこれに尽きるでしょう。

 

ウイーン移住はほぼ決まり。

仕事をどうするかのメドが立ちませんでしたが、

2度目のウイーン行きからの帰国後、

思わぬ話がドイツ在住のご夫妻から舞い込みます。

 

前述しましたが、娘たちを連れての2度目のウイーンで、

ベルベデーレ宮殿(上宮)へクリムトの「接吻」を見にいきました。

「接吻」の展示室でしばらく動かなくなった次女が、

「この部屋にテントを張って住みたい」と言い出します。

この宮殿の周辺は住宅街で、アパートメントが並んでいるのは見ていましたので、

「この近くに住めば、毎日来れるやん」という会話をしながら、

下宮側の出入口から外へ。

近くのレストランで食事をして、トラムにのって街の中心部へ移動しました。

 

帰国後、ドイツのご夫妻から舞い込んだのは、

その下宮出入口の正面にある、ギャラリーショップのオーナーが、

引き継ぐ人を探しているので、

やってみませんか?という話だったのです。

 

記憶には残っていませんが、

あのとき私たちの視線にはそのお店が入っていたでしょう。

そんな場所で、私たちに仕事の話がやってきたのです。

 

 

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2021春。ウイーン移住への記録 第6回

2020.04.17

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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話を進行させる前に、

どうして「今」、「ウイーン」へ移住しようと考えたのか。

頭の中を整理しながら、説明してみます。

 

ここ数年、オーベルジュメソンはまだまだたくさんの「伸びしろ」があるのに、

僕たち夫婦が経営を続けていると、

これ以上伸びない、という印象を強く持っていました。

だから、早く後継者を見つけ引き継がないとと、

焦っていたといえます。

そんなときに、長女が「やってみる」と承継を決めます。

 

当面、後継の体制も含め、引き継ぐための準備に入っていますが、

50代後半の僕たち夫婦は、その後どう生きていくか、

決めなければなりません。

お店も自宅も、娘に譲って出ていこうというつもりなのです。

働かなくても食べていけるような蓄えがあるわけではないので、

収入源をどうするか、暮らしていく場所をどうするかを、

決める必要に迫られています。

 

今は滋賀県の山麓の、のどかな田舎に住んでいます。

「年を取ったら、都会に住むかなぁ」と、漠然とは思っていました。

国内外どこでもよかったのですが、

国内でいえば、東京、大阪、京都など、知っている都会は

どこも僕たちには候補になりません。

次の仕事のあてもいまのところメドがありません。

さて、どうしたものかという段階だったわけです。

 

そんな時期のヨーロッパ行きでした。

1度目のウイーン行きは、ブタペストまでは、飛行機で入りましたが、

ブタペスト→プラハ→ウイーンの国境をこえる移動は、列車でした。

2度目のウイーン行きは、ウイーンへと、その後のウイーン→パリは飛行機でしたが、

フランス内のパリ→ストラスブール→ディジョン→パリの都市間移動は、列車でした。

大陸にいれば、パニック障害で薬を飲まないと飛行機に乗れないという「苦行」がなくとも、

国境を軽々超えることができることを、初めて実感します。

車移動という手段もあるわけで、

ヨーロッパ・アジアは陸続き。アフリカ大陸までも、

飛行機に乗らなくても移動できることに、気づいたのです。

おおげさに言えば、日本という島国で生まれ育った発想は、

世界標準ではなかったのです。

 

長い時間、鎖につながれていた象は、鎖の縛りがなくなっても、

鎖につながれているかのような行動しかできないといわれます。

その象と自分が重なります。

 

この年齢になるまで、たくさんの車を乗り替えてきました。

そのほとんどは輸入車(新車価格の1/10程度になった、古い車ばかり)ですが、車好きというよりは、

いろんな国のいろんなメーカー、いろんな車種に乗ってみたいという、

好奇心がそうさせてきました。

車って、ある時代の、

その国のテクノロジーとデザインの先端を集約した製品です。

そうしたものを、できるだけたくさん、体験したいのです。

 

大陸に住めば、単に車だけではなく、国・都市・町・村、人、食、美など、

苦行を味わうことなく、さまざまな体験の幅がほぼ無限に広がりはじめます。

 

ウイーンに住みたいという前に、

まず大陸に住むことの無限な可能性にときめきだしたのです。

 

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2021春。ウイーン移住への記録 第5回

2020.04.16

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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ドイツに帰国されたご夫妻は、

しばらくして「世界展開している同じコミュニティ」の

ヨーロッパ地域のミーティングに参加されたようです。

 

ぼくたち夫婦のことを気にかけていただいていたご夫妻は、

そこに参加されていたウイーン在住であろう、とある女性に声をかけます。

「ウイーンに移住したいという滋賀の渡辺さんという‥‥。宿泊施設がやってみたいと‥‥

その女性は「その渡辺さんって、まさよさんじゃありませんか?」

 

そうです。滋賀の渡辺さんの、まさよさんっていうのは、わたしの妻です。

おそらくそんなやりとりが行われたようです。

 

なんと、ウイーン在住だろうというその女性は、

ぼくたちがウイーンで「トラベロコ」を通じて、お会いしたLさん。

ぼくたちのウイーン移住サポーター、第1号の方です。

 

すぐに、妻のスマホにお二組からLINEが届きます。

「こんな人と出会ってしまった!」。

 

「コミュニティ」をベースにした、信頼関係はとても強いものがあります。

それはぼくにも理解できます。

 

そんな出来事があってから、私たちは今年の冬、2度目のウイーンに出発します。

自分たちの本気度と、

これから親がどんなところに住もうと思っているかを見せるために、

娘2人も連れていきました。

 

 

この絵、クリムトの「接吻」。

ウイーンが代表する画家です。

ベルベデーレ宮殿にある美術館の一室にあります。

この部屋に次女が向かうと、しばらく動かなくなりました。

 

僕らは待っていられないので、どんどん先へ進んでいきます。

ずいぶん経ってから、次女は「私はあの部屋にテントを張って住みたい」。

おそらく実現不可能なので、「この近くに住んだら、毎日見に来れるやん」。

 

実は、このやりとりが私たちの移住を決定づけるとは、

予想もしていませんでした。

 

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2021春。ウイーン移住への記録 第4回

2020.04.16

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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2度目のウイーン行きの1か月ほど前。

一組のご夫婦が、メソンを訪ねてくだいました。

京都出身、ドイツ在住。この時期に帰国をされていたようです。

年齢は僕たちと同世代でしょうか。

 

ここから、不思議な「縁」が次々につながっていきます。

 

京都に住む妻の妹の、

「姉がウイーンに移住するって言いだしたんですけど、

参考になる話をしてあげてもらえないか」という依頼に、

応えていただいたんだと思います。

(このご夫妻とこちらの姉妹は、

世界展開している同じコミュニティに属しているという信頼関係がベースに存在しています)

 

オーストリアとドイツは隣国。

ともにドイツ語圏という共通点は確かにあります。

 

「わたしたちは、ドイツで美術関係の事業を立ち上げてるんですが、

ビジネスパートナーは、ウイーン在住のオーストリア人。

宿泊業にこだわりがなければ、ウイーンで仕事をご紹介できるかもしれない」。

会社の立ち上げや、ビザの取得など、さまざまなお話をうかがいましたが、

ぼくたちにとっての核心はここだったのかもしれません。

 

ウイーンで宿泊業をスタートさせるには、

資金が足りないという事実に直面しています。

不動産情報をみると、ウイーンから距離のある地方だったら、

手が届きそうな「居抜き」の物件は存在しているが、

ウイーンに住めなくなるうえ、集客にも問題がありそう。

経験のない事業を成功に導く確信もありません。

 

移住後の仕事は、宿泊業しかイメージにありませんでしたが、

「どんな仕事をするか」より「ウイーンに住み続けられること」のほうが、

ぼくたちにとって大切なのではないか、と思案しだします。

 

このご夫妻が、ドイツに帰国されてから、

ぼくたちが知らないところで、勝手に「縁」がつながっていきます。

 

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2021春。ウイーン移住への記録 第3回

2020.04.15

オーベルジュメソンの経営を、

まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。

そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、

ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。

この連載は、移住までの顛末を記録していきます。

「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、

なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。

 

ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。

その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。

(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。

妻の観点は直接お聞きください・笑)

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オーベルジュメソンを立ち上げてから、

ずっと思い続けてきたことがあります。

「経営者が僕たちじゃなかったら、

ここはもっといい宿泊施設になっていたかもしれない」と。

経営者としては、3流を自認しています。

 

2代の前オーナーから引き継いだためか、

メソンは、ぼくたちの「所有物」というよりは、「預かり物」。

次へ引き渡すまでの「管理人」感覚をずっともってきました。

 

それでも18年間、精一杯心地よい時間と場を提供できるよう、

誠実に努力してきましたが、

「もうこれ以上は僕たちの手に余る」という思いも募っていました。

ですから、数年前から後継者を探しはじめます。

すると、長女(当時は大学生でしたが)が手を上げました。

卒業後少しずつ、経営移行の準備を始めています。

 

次は、僕たちの「次」をどうするか。

そんな時の、ブダペスト・プラハ・ウイーン行きだったわけです。

 

ウイーンでトラベロコを通じて出会ったのは、僕たちより少し年長の女性(Lさん)でした。

ホリイゲ(ウイーンの居酒屋さん)で、ビールやワインを飲みながら、

「ヨーロッパで、ぼくたちにできることがある気がしてるんです」

なんて話も聞いてもらっていました。

 

Lさんは、「移住されるんでしたら、お手伝いしますよ」と。

後日、Lさんのご主人とも食事の機会がありました。

オーストリアの超高級ワインやワイングラスの輸出や、

日本の「しめじ」の栽培をオーストリアで始めるなど、

全貌がよくわかりませんが、現地で事業を立ち上げている方。

このご夫妻との出会いで、僕たちは本気モードに入りかけて、帰国します。

 

この時の僕たちの新たな仕事のイメージは、

ウイーンで小さな宿泊施設を始めることでした。

帰国してから、観光情報でないウイーンやオーストリアについて、調べ始めます。

 

国の面積は、北海道程度。ウイーン人口は札幌市と同じぐらい。

とても小さな国ですが、一人当たりGDPは日本よりはるかに上。

豊かな国なのです。

ご紹介いただいた不動産サイトを見ていても、

小さいとはいえ宿泊施設ができるほどの規模の価格は、

僕たちが準備できる一桁上の金額です。

 

「どうしたのものか?」

なんとか打開策はないものかと、

今年の1月末をメドに、再度ウイーンを訪れるプランを練りだします。

 

 

 

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